梓川小学校の「青い目の人形」の物語

今から75年前の昭和2年

当時のアメリカ社会には日本人移民排斥の運動が高まり
日本側ではこれを非難し反米集会などが広がっていました

アメリカの世界児童親善会が日本の子ども達へ
「友情の人形」を贈ることを決めたのは
 幹事のギューリック博士が親日家であり
「日本はひなまつりなど文化的伝統を持つ国だから」と
助言し「平和は子どもから」との願いをこめて
12.725体の小さな人形を日本の子ども達におくりだしました

 遠い国に行くのに、まだ飛行機のない頃
人形達は船に乗り何日もかかって太平洋を越えてきました

 長野県には286体の人形が贈られ、ほぼ全ての
小学校に配られました

 昭和16年、日本とアメリカが太平洋戦争に入ると
「青い目の人形」は「敵国の人形」として軍からの指令により
 全校生徒の前で竹槍でつついたり、手足をもぎ取って
焼かれたり捨てられたりしました

 しかし「人形に罪はない」と倉庫や押入の奧に隠す等
一部の人に護られて戦後発見された「青い目の人形」は
全国で305、長野県では23体でした

「メリー」 高さ30cm 
横にすると目を閉じる仕掛けもしてあった
 
平成元年「青い目の人形」の里帰りの渡米中
ドイツ製のメリーは他の人形と違って
顔が陶器製で変色せず目がガラス製で澄み
 これがかえって災いを招く原因となり
 サンフランシスコの展示場で盗難に遭い現在まで
行方しれずです

 盗難に遭ったのは里帰りした92体中の2体のみですが
(もう一体は山口県福賀小)
共にドイツ製の骨董価値の高いものなので
マニアの犯行だと言われています

 

梓川小学校の児童達はメリーが盗難され悲しい
思いをしていましたが
 このことを知ったアメリカの一婦人が
自分が大事にしていた人形を送ってくれました 
 それがこの「アン」です

翌年の平成2年に、里帰りを企画した方々から
新しいアメリカの人形「マリー」を送ってくれました
現在、梓川小学校の図書室には「メリー」に代わり
「アン」「マリー」そしてこの青い目の人形が飾られていて
毎日図書室に来る子ども達を見守っています

世界から戦争がなくなることを
子ども達が、人々が安らかに穏やかに
幸せに暮らせることを祈っているかのように..



青い目の人形
野口雨情作詞
本居長世作曲


. 青い目をしたお人形は アメリカ生まれのセルロイド
 日本の港へついたとき いっぱい涙をうかべてた 
 わたしは言葉がわからない 迷子になったらなんとしょう
 やさしい日本の嬢ちゃんよ
 なかよく遊んでやっとくれ なかよく遊んでやっとくれ
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